僕のあだ名がヴォルデモートになるまで

僕がいつかヘビを飼い始めて、そして禿げ上がってスキンヘッドにするまでの軌跡

AtCoderで緑色になった

AtCoderとは競技プログラミングのコンテストを主催しているサイトである。競技者は実力に応じた色にランク分けされる。一昨日のABC195で緑色になれた。まだまだ駆け出しであるが素直に嬉しい。

2020年の9月にアカウント作成し、数回コンテストに出て放置していたが年末くらいから再開しコツコツ過去問を解いていた。最近は一日2ACすることを課題に設定している。その成果が報われたようで気持ちいい。全く未知の分野に挑戦して、コツコツ努力し、成長を感じる。非常に楽しい。生涯学習の重要性が説かれるのも頷ける。

現在のレートが900程度。今月はあと4回もコンテストがあるようなので(運営さん、ありがとうございます。)、1000超えることを目標にやっていきたい。

格闘の効用

武道や格闘技をかれこれ10年くらいやっている。とはいえ激しいトレーニングはしておらず、趣味でゆるゆる続けているだけなので、20代にして見事な中年ボディをしている。近頃は階段の上り下りも息が上がって辛くなってきた。もともと運動が不得手なのもあり、お世辞にも強いとはいえない。そんな自分が僭越ながら格闘技をやる効用について大きく三つ語ってみようと思う。

まず一つ目がリフレッシュ効果である。全力で動くことは楽しい。気持ちいい。現代社会において、全身の筋肉を爆発的に連動・発揮させる機会は少ない。ここ一ヶ月で本気で"暴れた"ことのある読者の方がいらっしゃるだろうか?私はある(もちろんルールとマナーを守ってのことである。)。残念ながら私の表現力ではこの喜びを読者の方に届けることはできない。ぜひご自身で体験していただきたい。ランニングや筋トレなどにも同種の喜びは伴うであろうが、私のような飽きっぽい人間に単純動作は続けられない。その点、格闘技では相手がいて、展開や動きが無限に広がりっていく。飽きることがない。さらに格闘には原始の喜びを刺激する魅力もあると思う。

二つ目はコミュニティの形成である。格闘にはコミュニケーションとしての側面があると思う。本来格闘とは意志と意志のぶつかり合いである。言葉で和解し得ない両者が肉体的に主張をぶつけ合う。もちろん主張の真偽と格闘の勝敗に関連がない以上、これは本来野蛮な営みであるが、幼少期取っ組み合いの喧嘩をした相手とかえって仲良くなるという体験をしたことのある人も多いだろう。格闘技ではこれをルールのもと(相手との確執があるかないかに関わらず)平和的に追体験できる。スポーツ一般でそうであろうが、ボディコンタクトを伴いながら全身全霊でぶつかり合った両者の間には友情が生まれるのが通例である。特に運動習慣を確保しづらい中高年にとって、道場やジムは"大人の部活動"を提供する場になるのではないかと思う。

そして最後は絶望とそれによる達観である。これは上の二つに比べて一般的な概念ではないだろう。丁寧に説明していきたい。格闘技をしていると同じ人間と思えない人と練習を共にすることがある。私の体験でいえば柔道の全日本選手権に出場した選手と組ませていただいたことがある。組んだ瞬間に伝わってくる圧力、いつ技に入られたのか認知することもできず宙に舞う自分の体、寝技に持ち込んでも無造作に足をこえられ身動き一つ出来ずに押さえ込まれ、自分の腕が細い木の枝かのように簡単に極められる。彼はとても紳士的に稽古をつけてくれているのだが、こちらからすると測ることすらできない戦力の差に絶望するのである。「この人には絶対に勝てない…」こういう体験をした時、人は自分という存在の小ささを知り、謙虚になれる。なんのジャンルでもこういう体験はできるのだろうが、格闘においてはそれが生物の原始的強さに直結するため、一際打ちのめされることができる気がする。これだけ書くと幾分暗い内容に思われるかもしれないが、もう一つ面白い効用がある。この時、身の回りの諸問題が軽く感じられるようになるのだ。日常生活で抱える対人関係、学業、進路など種々の悩みがなんとかなるような気がしてくる。絶対的な武力を持つ他者を前にして、擬似的な死を経験することで、日頃の悩みが意外と小さなものだと気づく。実際100kgごえの巨漢に首を絞められている時には普段の悩みを思い起こす余裕などない。頭にこびりついて離れない心配事から、距離を取り冷静さを取り戻すために格闘技は有用である。

親の脛をもう2年はかじり続ける

春から大学院生になる。大学生活については全資金を親の援助に頼った。大学院進学後は奨学金の申請をするつもりではあるが、大きく状況が変わることもあるまい。申し訳なくも思うが、自分にできる一番の親孝行は元気でいること、自分の納得できる生き方をすることだと思っている。堂々と親の脛をかじっていく所存である。社会人になったら少しはいい思いをさせてやりたい。